![]() |
そっと足音を忍ばせて部屋に入るのはなんとなく気分のいいものではない。しかし、多分ぐっすりと眠っているはずの彼女を起こすわけにもいかないのだ。こんな夜中に帰ってくる自分を、しょうがないわね、と言って文句一つ言わない彼女は、本当に自分には過ぎた妻だと思う。実際、どうして嫁に来る気になったんだ?と聞いてみたいのだが、きっとそれは怖いもの聞きたさというやつだ。
今にして思えば、玉砕覚悟だったとはいえ、よくもあんなことを言えたものだと思う。 「…アデルバート?帰ったの?」 ぎくりとして振り返ると、ベッドの上に眠っていると思ったはずの妻が起きあがっていた。 「わ…悪いな。起こしたか?」 「うとうとしてただけよ。あなたが帰って来れたってことは、彼も帰ってきたのね?」 まあ、そういうことだ、と言葉を濁すスタイナーにベアトリクスは髪をかき上げながらくすくすと笑った。 正直に言って、不思議な気分だ。以前は反目しているも同然だったのに、今はこうやって同じ家に住んで、しかも女王陛下臨席の上での式まであげて(そんなに華美な物でもなかったが)夫婦として暮らしている。 「おなかがすいたのではなくて?何か作るわ」 「おぬしだって明日の朝早いんだろう?自分のことはいいから…」 その言葉の続きを言う前に、ベアトリクスはさっさとカーディガンを羽織ってベッドから降り、スタイナーの甲冑をはずす手伝いをし終わると、階下に降りていった。 |
自分のことはいいと言ったくせに、ありあわせの物で作った夜食を持っていくとそれはそれはおいしそうに食べる夫を見ながら、ベアトリクスは一緒に作ってきた紅茶に口をつけた。
「で、今日の結果は?」 「…引き分けだ。あやつ、また腕をあげおって」 当てなどない探索の旅をいまだ続けているジタンが帰ってくると聞くと、ガーネットは一日中部屋の窓を開けっ放しにして彼が帰ってくるのを待っている。その寝室のテラスの前でスタイナーが寝ずの番をするのがすっかり定着してしまっている。 最初のうちは、あやつは陛下の警護のことを考えているのかなどいかにもな文句をぶつくさと言っていたスタイナーが、ここ最近は楽しそうな雰囲気すら見せ始めているのは、きっと帰ってくるたびに腕をあげてくるジタンと手合わせが出来るのが楽しみなのだ。 「でも、これで陛下もほっとされるでしょうね。ジタンが行方不明になったと聞いた時の陛下のお顔はまだはっきりと覚えているもの」 「まったく、あやつときたら! 陛下のご心痛も考えずにふらふらと出歩きおってからに…」 ベアトリクスが大急ぎで作った、ありあわせの具だくさんのクリームスープと軽くあぶったバケットをすっかり平らげて、満足そうなスタイナーはふと目の前で紅茶の湯気をその形のいい顎にあてるようにしているベアトリクスを見た。 城にいる時の女将軍としての彼女もまた惚れ直すくらいなのだが、この家にいる時の彼女はまた違った顔を見せる。側にいてくれるだけでいいと思っていたのに、以外と手まめで家事上手な彼女に驚いたものだった。さすがに普段は家令の老夫婦に万事を任せてしまうものの、ことスタイナーのことになると彼女は出来る限り自分でやろうとした。ここでは言葉遣いもやわらかな雰囲気になり、かえってスタイナーの方がいまだにぎくしゃくしてしまう程だ。 そして、おそらくはこの家の中でしか見ることの出来ない彼女の右の瞳を思わず見てしまう。 明るい鳶色の左の瞳と、そして、鮮やかな碧の宝玉の右の瞳を。 その右目を覆う眼帯をはずしたことがないベアトリクスに関しては、剣の試合で傷を負ったのだとか流行り病で目がつぶれたのだとかいろいろな噂が飛び交っていて、噂にはとんとうといスタイナーですらその話を知っていた。 式の前日にいきなり部屋に訪ねてきて話したいことがあると言った彼女に、やはり結婚を取りやめたいのだろうかと焦ったスタイナーだったが、部屋に入るといきなり眼帯をはずしたベアトリクスの顔を見下ろして、そして息を飲んだ。 …驚いた?と言う彼女は、見たことがないほど弱々しい笑みを浮かべていた。 それから、何も言えないスタイナーから視線を落として、ベアトリクスはこの色の違う瞳のせいで彼女に起こったいろいろなことを話した。言わないのは卑怯だから、と最後にまっすぐな視線を向けた彼女に、スタイナーは正直にこう言った。 『…なんでそんなに気味が悪いと言われるのかがさっぱり自分には理解できん。どちらの瞳も、その…』 綺麗ではないか、という言葉を搾り出すのに随分苦労したスタイナーの前で、わずかに泣き笑いのような表情になったベアトリクスが彼の胸にそっと顔を埋めるのにたいして時間はかからなかった。 その後、夜更けまでずっと話しこんでしまった後、ふと気がつくとスタイナーの肩にもたれるように眠ってしまったベアトリクスの初めて見る寝顔に見とれてしまい、式の前日ということでただでさえ緊張していたのが尚更眠れなくなり、とうとう彼女を起こすか起こさないか悩みつづけて一睡も出来なかったのだ。 その反動で、晴れの式に真っ赤に充血した目で出てきた彼は案の定、式の日の夜は爆睡してしまった。その後、その失態を取り返して新妻との一夜を迎えるために彼は奮闘に奮闘を重ねたのだが、それはまた別の物語である。 つい最近のことなのに、もう随分時間が経ったような感じでぼんやりと物思いにふけっていたスタイナーの耳に、不思議そうな妻の声が入ってきた。 |
「…私の顔に何かついてて?」
そう尋ねた途端、はじかれたようにはっとした夫は慌てて首を横に振った。 「もう寝た方がいいわよ。明日の登城も私と同じ時刻でしょうに」 夫婦共に王宮に出仕している二人は、毎朝ほぼ同じ時刻に家令の老夫婦に見送られて結婚を期に女王から拝領した屋敷を出て登城する。軍務関係の仕事を分担してこなすわけだが、これがなかなかに激務である。朝は同じ時刻でも、帰宅はばらばらというのがほぼ毎日である。 けれども、城内で顔を合わせることも多く、周囲がおせっかいなほど心配するすれ違いもそう感じることはない。むしろ、責務の都合上どうしても夫と城内で顔を突き合わせなくてはいけない時に、部下たちの興味津々な視線と、いまだに緊張するらしいスタイナーの態度の方が悩みの種になっている。 「そうだな、明日は軍事訓練があるんだったな」 焦ったような口調の夫に、何を考えていたのかしらと首を傾げそうになったベアトリクスだが、ああ、と思いついたかのように夫が言った言葉に思わず笑みをこぼす。 「ジタンがな、よろしくだと」 おそらくはからかい半分で言われたのであろうその言葉を律儀に伝えてくる夫に微笑みながら、一方でしばらくは心配事から開放される女王のことを思うベアトリクスは、それでもなんとなく気になって聞いてみた。 「そんな伝言一つでそこまでぼんやりしていたわけではないでしょう?何を考えていたの?」 ベアトリクスは全く気がついていない。その普段は隠している碧の瞳で見られると、彼女の夫は何も隠し事など出来なくなってしまうことを。薄々とわかっているのは、じっと見られるとしどろもどろになって答えてくるということくらいだ。 随分長い間同じ城中にいてそれなりに見知っていたはずなのに、同じ屋敷に住むようになって気がついたことのなんと多いことか。そして、あの混迷の1年の間に実に様々なことを学んだ彼のことも。 …もし、もう一度戦場に立つことがあれば。 ベアトリクスはおそらくもう変わることのない決意を胸の中で呟く。 この人の背中を守るのは私でありたいし、 私の背中を預けられるのはこの人しかいない。 「…いや、最近…」 「最近?」 「妙にいらんお節介を焼いてくる連中が多くてな」 「いつものことだと思うけど?」 「それはそうなのだが…」 言葉を濁す夫の目をじっと見てみると、やっぱりしどろもどろになった夫は、こんなことを口にした。 「その調子だと、子供なんて二の次だろうなどと言う輩が多くて…」 言った後で、しまった!と言いたげに口を押さえるスタイナーと、別の意味で目を見開いてじっと夫を見てしまったベアトリクスの間で、しばらく時が流れた。 「き、気にすることはないし歯牙にもかけんでいいからな!なんと言ってもそなたは陛下の一番の側近なのだし、自分よりも遙かに重要な職務なのだからな」 意識をしていなかったと言えば嘘になるが、真剣に考えたことがあったのかと言われれば首をかしげざるをえないことだった。女王の元にあの男が帰ってくるのを見届けてから華燭の典をあげ、それからもずっと共にうら若い女王に仕えてきた日々だった。夫婦でもありながら、一番信頼出来る戦友でもあり、そして代え難い人物に共に忠誠を捧げる身として、共有するものは多すぎるほどあって周囲がなんと言おうとも幸せなことに変わりはなかったから。 でも、もう一つ共有出来るものが増えたとしても、きっとそれは二人にとってこの上ない宝となってくれるはずで。 そして、もしかしたら。 …自分からは気恥ずかしくて言えなくて、彼が言ってくれるのを待っていたのかもしれないと、今思う。 「…そんなに周りが期待しているのなら、いっそのことその期待に応えるという手もあるのではなくて?」 あんぐりと口を開けてしまう夫にくすくすと笑いながら、冗談よ、と一瞬言おうと思ったのだが、それは彼女自身の照れ隠しだと気がついて言うのをやめた。 「もう寝ないと本当に起きれなくなるわよ。軍事訓練の最中に居眠りなんてしたら…」 立ち上がろうとしたベアトリクスの手をいきなりスタイナーが掴んだ。そのまま元の場所に座り込んでしまう彼女に、夫はどもりながらもこう言った。 「い、一番期待しているのはきっと自分だ。どちらの瞳の色でもきっと綺麗だろうし、そなたに似ればきっと剣の才も長けているだろう。気の済むまで稽古をつけてやるのもきっと楽しいだろうし…」 何が言いたいのか自分でもわからなくなったらしい彼は固く彼女の手を握ったまま離そうとしない。そして黙って話を聞いていると、完全に生まれてくるのはベアトリクスに似た女の子だと信じて疑っていないのだということに気がついた。 残りの二分の一の可能性を完全に除外してしまっているその様子にどう答えていいのやら迷ったあげくに、それでもどこか心があたたかくなるような感覚を覚えて、ベアトリクスはふとこう言った。 「女の子でそんなに剣に長けていたらお嫁の行き手がなかなかないのではなくて?」 それに対して、今までしどろもどろだったスタイナーは実に素早く迷いもなく即答したのだった。 「大陸一の剣豪と名高かったそなたは嫁に来れたではないか」 その夜の彼の言葉の中では一番説得力のある言葉に、ベアトリクスはわけもなく頷いてしまい、その後に大きな夫の体に寄りかかるようにしてくすくすと笑い続けたのだった。 |
この時、既にベアトリクスの胎内に息づいていた小さな命があったことや、そのことに後日思い至った二人が納得と驚きを感じたことなどは、また別の機会に語られることであろう。
そして、二人がどんな想いで眠りについたかも。 |
![]() |
あとがき |
**まにまに文庫** | **石鹸工場** |